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代表取締役社長
ゼネラルパートナー

好きに生きて、宇宙物理学者へ
堀内 竹田さんご自身のこれまでを振り返って、自己紹介をお願いできればと思います。もともと研究者だったと伺っています。
竹田氏 竹田玄哉と申します。今年48歳になります。我々はいわゆる就職氷河期世代で、大学に入ると世の中は非常に不景気で、先輩たちも「仕事がない」という話ばかり。みんな会計士を目指したり、いろんな学校に通い始めたりしていました。成人する間近で「自分たちは社会から必要とされていないんだな」という認識から始まったんですね。
大学は1年で中退しました。「だったらもう好きに生きよう」と。ずっと興味があったアメリカに、つてもなく留学しました。英語ができなかったので語学学校から始めて、短大に入り、4年制大学の3年生からやっと編入できた、という感じです。
堀内 なぜアメリカに?
竹田氏 アメリカに憧れる、最後くらいの世代かなと思います。テレビドラマを見たり、学校の先生の影響だったり。それと、日本に居場所がないなという感じもあって。
大学では、日本では文系だったのですが、一度しっかり物理や数学を勉強したいと思いました。中途半端な時期に編入したので、いきなり量子力学や相対性理論を全部詰め込まないと単位が間に合わない。その後に古典力学を取るというようなめちゃくちゃな履修だったのですが、なんとか詰め込みで卒業できました。
一応、「初期ゴール達成」という感じでしたが、ここでやめても中途半端だなと思い、研究をしたくて大学院に進みました。シカゴで6年ほど博士課程をやっていました。専攻は宇宙物理学。シミュレーション天文学に近い分野です。コンピュータの中で計算を組んで、星の周りに隕石を並べて何億回も回して惑星を形成したり、ブラックホール同士を衝突させて何が起きるかを見たり。理論寄りの宇宙物理学ですね。

堀内 当時からシミュレーションで、いろいろな再現や仮説の検証をコンピュータ上でやられていたんですね。
竹田氏 もちろんAIもない時代なので、ベタ打ちのC言語やFortran。Pythonが一般的になってきた頃でした。ずっとコードを書いてデバッグしていましたね。「動かないな」と(笑)。
堀内 いま逆に量子コンピュータが出てきて、その可能性たるや、すごいんじゃないですか?当時苦労していたことが、いまとつながっている。並列計算のサーバークラスターを組んでいた時代から、いまのNVIDIAのGPUや量子コンピュータへ。
竹田氏 そうですね、ワクワクします。2005〜06年頃、同僚のトルコ人のエキスパートが入ってきて、私にコーディングを全部教えてくれたんです。彼が「NVIDIAのGPUを計算に使いたい、こっちの方がいい」とずっと言っていて、これでクラスターを組もうとしていた。20年も前から「絶対この会社はすごい」と言っていたんですね。当時、ほとんどの人はNVIDIAといえばゲーム関係のグラフィックの会社という認識でしたから。
その後、なんとか博士を取って、研究者になろうとUC Santa Barbaraにポスドクで拾ってもらい、研究を続けていました。ただ、30歳手前で一度落ち着いたときに「一生、宇宙のことを考えていくのだろうか?」と。究極、現場がない世界なんです。誰も研究対象を触ったことも見たこともない。10億年前か、はるか先の話しかない。だんだん疑問を感じているところもありました。
そこへリーマンショックが来て、その頃にやっぱり実業をやってみたいと思って、日本に帰ってきました。リーマンの真っ最中の2009年2月に三桜工業に入社して、今に至ります。
堀内 会社勤めとしては、三桜工業が最初なんですね。入られて最初は何を?
竹田氏 リーマンの最中だったので、自動車メーカーが生産を止めていて、製造現場が割と静かな状態でした。会社も戦略を作り直していた時期で、先々代の社長あたりから「自動車部品事業だけでは成り立たないかもしれない」という危機感があって、研究開発部門に配属になりました。産学連携のプロジェクトをたくさん作ったり、CVC投資をやってみたり、何も知識がないので見よう見まねでした。社長になるまで8年ほどの3分の2は、そういう新事業・研究系を担当していました。
零戦も、酒も、モーターも──87年のチャレンジ
堀内 先々代が新規事業をやっていこうと思われた背景に、どういった歴史があるのでしょうか?
竹田氏 87年の歴史で、最初の40年と後半の40年とで、だいぶ異なるんです。
三桜工業は1939年創業で、私の母方の曽祖父が創業し、私は6代目になります。創業者は鈴木商店(編集注:大正時代に日本のGNPの約1割に相当する売上を記録し、「日本一の総合商社」となった戦前の巨大商社)の出身で、法務・契約担当のような立場でした。鈴木商店がどんどん巨大になっていくフェーズにいて、そこで事業を覚えた人です。その後、政治家に転身するのですが。
創業時は「大宮航空工業」といって、中島飛行機(現在のSUBARUさんの前身)の下請けで始まりました。戦闘機の部品──零戦や隼などを作っていました。機械製造から始まったわけです。ただ戦争が終わると、すべて政府に接収されて、機械製造禁止になってしまった。「さあ何をやるか」というとき、創業者はどちらかというと商人・政治家の出なので、政府にいろいろ仕事やライセンスをもらいに行ったんですね。そして「茨城県はさつまいもが採れるだろう」ということで、醸造(酒造り)を始めるんです。
そのときのお酒の名前が「三桜(さんおう)」──3つの桜です。「三桜(みざくら)」「黄桜(きざくら)」などは(屋号が)取られていて、音読みの屋号が余っているということで、それでいい、と。製造業らしからぬ名前は、そこから来ているんです。
その後、朝鮮戦争で手榴弾の信管を作ったり、小型モーターに手を出したり。東京通信工業──ソニーさんの前身ですね──ができた頃の卓上テープレコーダーのモーターで、市場占有率を半分くらい持ったこともありました。いろいろ多角化を試みては、なかなかうまくいかないという前半戦でした。
堀内 前半の30〜40年は、環境因子も大きいですね。戦争で飛行機部品が盛り上がるけれど、接収されてなくなってしまう。見渡せばさつまいもがある、と。常に新しいことにチャレンジせざるを得ない状況だった。

竹田氏 割と、いろんなポートフォリオを持っておきたい創業者だったみたいですね。一度に1本ではなく。技術者ではなく、商売人が作った会社なので、なおさら「1本に絞るのはきつい」という感覚があったのかもしれません。
その中で、ある電機メーカーの会長に助けていただいて、昔の冷蔵庫のワイヤーコンデンサー、うねうねしたチューブを手がけることになった。──これはいまもインドで生産が続いています。そこからチューブを「曲げる技術」を核にしていきます。60〜70年代に自動車産業が伸びてきて、この技術を自動車に活かそうと自動車の配管製造を始めた。それがだんだんコアになっていって、80年代からグローバル化の20〜30年、という流れですね。
輸送効率「最悪」な部品で世界中に頼られる存在へ
堀内 そこから自動車産業でずっとやってこられて、いまや拠点が世界中に広がっている。自動車産業自体が世界最大の産業になり、いろんな拠点で部品を供給する必要が出てきたから、ということでしょうか?
竹田氏 それもありますが、我々は会社の規模の割に拠点数が非常に多いのです。これは製品によるところが大きい。
自動車の部品は3万点ほどあるのですが、当社が手掛けるのはその中でも「荷姿最悪」と言われる部品なんです。自動車の床下全体に張ってある配管で、細長く3次元にうねうねと曲がっている。コンテナに積むと、ほとんど「空気を運んでいる」ような状態で、積載効率が極端に悪い。シートやヘッドライトよりも悪いんです。
だから、ストレートのパイプを作って現地へ送り、お客様の工場の隣で加工するしかない。お客様の工場の中で生産していることもあります。中小規模で、かつ独立系──特定の自動車メーカーのひも付きではなく、ほぼ全世界の自動車メーカーと取引がある。だから、全メーカーの工場のそばにいなければならない宿命なんです。それが拠点数の多さにつながっています。
堀内 その代わり、特徴的な技術を持って隣に工場を構えているので、全メーカーからすると「三桜工業さんしかいない」という、頼らざるを得ない、頼られる存在になっている。
竹田氏 そうですね。
スーパーコンピュータ「富岳」で気づかされた自社基準の高さ、そして新たな事業領域への展開
堀内 その曲げる技術をはじめとする御社の強みを活かして、どのような新たな事業領域を見出しているのでしょうか?
竹田氏 新規事業については、大きく3つの方向性で取り組んでいます。
1つ目は、「既存の技術やアセットを活かした次世代コア事業の創出」です。自動車部品事業で培ってきた技術や設備、量産ノウハウを別の市場に展開し、将来の収益の柱を育てていこうという考え方ですね。その代表例が、データセンター向けのサーマルソリューション事業です。
堀内 データセンターに目をつけられたのは、あの「富岳」に採用されたからですか。
竹田氏 富岳は、理化学研究所さんが「世界最高水準の計算性能」を、「できる限り低い消費電力で実現する」ことを目指していて、最初から水冷でいくことになっていたんです。後から聞いた話では、電機メーカーの中に信頼できる水冷技術を持つところがなく「品質レベルが一段高い自動車業界を当たってみよう」ということで、当社を見つけていただいたそうなんです。
受注して我々も驚きましたし、作るときも驚きました。例えば品質監査の精度について「三桜工業のスペックでお願いします」と言われるんです。「自動車産業の品質要求の方が、当初基準より厳しくレベルが高いので、その基準でいきましょう」と。有名な電機メーカーからこう言われて、「自分たちは、そこに資するレベルのものづくりをやって来ていたんだな」という自覚が、初めて生まれました。
日々やっていることが当たり前すぎて、外部から見ればすごいことでも、当の本人たちはすごいと思っていない。自己客観視があまりない世界なんですね。

堀内 今後AIデータセンターが増えれば、当然それを冷やす必要が出てくる。貴社にとっては、マーケットが大きくなるメリットになる。既存の拠点を生かして展開していく。
竹田氏 当社の製品はチューブ、バルブ、コネクタ、マニホールドなどです。幸い、自動車部品の既存設備がほぼ使えるので、あまり新規投資をしなくてよいというメリットがあるんです。
門外不出の技術にニーズがあった
堀内 データセンター事業以外にも、これまでの歴史やアセットを使ったチャレンジをされていますか?
竹田氏 同じく、既存の強みを活かした次世代コア事業として、生産ソリューション事業を、数年前から伸ばそうとしています。我々の製品は割と特殊な形状なので、それを曲げたり組んだり、搬送したりする設備を、30〜40年前から自社でほぼ内製してきました。これを事業として外販できないかと始めたら、割とニーズがあったんです。
「1つのセルを自動化して、例えば作業工数を4人減らしたい」といった案件ですね。意外と、そのノウハウがない中小の製造業者が多いと分かってきて、需要があり、伸びている領域です。
堀内 技術というのは門外不出かと思いきや、それを売ってしまう。真似はされないのですか?
竹田氏 企画の仕方などをやってみて分かったのは、多くの製造業では生産ライン改善のノウハウが十分ではないということです。
我々は常に量産をしていて、自動車のモデルライフは3〜4年なので、その間ずっと改善してコストを下げることをお客様に求められ続けてきました。他の製造業だと「新しい工場を作るので全自動ラインにしたい」はあっても、「いま走っているラインを休日に止めてレイアウトを変えロボットをつなげる」というリスキーなことはなかなかできない。我々はそれを当たり前にやってきたので、「こういうやり方でできますよ」と提案できる。「ラインが壊れないか?」と聞かれても、「2〜3日もらえれば大丈夫です」と。そこも結構な強みだと、やってみて分かってきました。
学者の経験が活きる産学連携の突破口
堀内 既存事業の延長線上だけではなく、自動車部品とまったく関係ない領域にも取り組まれているのですか?
竹田氏 これは2つ目の方向性になりますが、「将来の社会課題を見据えた先端技術領域」です。──
次のコア事業、あるいはそのさらに先につながる可能性のあるテーマに早くから関わり、技術で社会課題を解決していこうという考え方です。これは自社のコストだけではさすがに難しいので、産学連携の枠組みを使うことも多いです。
例えば発熱回収の熱電発電の半導体や次世代半導体の加工・研磨方法──シリコンに変わる材料の研究などですね。あとは核融合分野にも、産学連携で関わらせてもらっています。核融合では、冷却周りでミラーの熱収縮を防ぐ冷却装置の開発などに関わっています。
堀内 竹田さんがずっと大学で研究されていたことは、会社が大学と組むときに、結構役に立っていますか?
竹田氏 すごく役に立っていると思います。大学独特の雰囲気を分かったうえで動けるので。
「新事業をやれ」と任されたとき、ちょうど海外経験のない新人がいたので、パスポートを取らせて、私が関わったことのあるアメリカの大学のリストを渡したんです。「教授とのアポを取れ」と。ホテルの予約からレンタカーまで全部やらせて、1〜2週間で一緒に回ってきました。
当時のアカデミアの先生というのは、まず論文を書くのが命で、あまり事業化には関心がない。みんな「自分はニッチなことをやっている」という認識なので「論文を読みました、感銘を受けました」と言うと、もうめちゃくちゃ喜ぶんです。どこの馬の骨か分からない日本の製造業者が来ても、3時間くらいずっと喋ってくれて「ぜひ一緒にやりましょう」となる。
飛び込みでも大丈夫なんです。「この先生、面白いことをやっていたよね、空いてるから入ってみよう」とコンコンとノックして「誰ですか?」。自己紹介から始めて、気づくと5時間くらい喋っているという具合で。そうやっているうちにいくつかパートナーができてきました。
サイエンス領域にこそ事業会社のエンジニアリングを
堀内 大学でやっていることは、実用化までの時期が読みにくいですよね。かけられる時間とコストは、ある程度限定しておく。
竹田氏 当初は、本当にこちらも素人だったので、「何かの事業にしたい」と思っていました。でも、いきなりディープテック系のハードウェアなので、当然、成功したものはありません。ただ、「大学発のスタートアップに投資したらエグジットしてくれた」といったタイムリーなリターンの成功は、いくつかありました。
最近増えてきたのは「周辺機器」です。量子コンピュータも核融合もそうですが、特にサイエンスの人たちが作るものはエンジニアリングが入っていなくて、品質や安定性に問題がある、温度管理に課題がある、ということが多い。そこに我々が結構お役に立てるんです。そういう周辺系が、最近増えていますね。
堀内 産学連携の場に、核融合などでスタートアップが増えてきた印象はありますか。それとも、まだスタートアップはあまり絡んでこないでしょうか。
竹田氏 そんなに活発には見られないですね。ちょっともったいないなと思います。
量子コンピュータも、半年ほど前に実機を見せていただいたのですが、物理学者の人たちが業者に手配して作っているので、見たところ「これは漏れますよ」と言ったんです。そうしたら数週間前に実際に漏れてしまったそうで、「直してください」とヘルプの連絡が来て、いま対応しているところです。専門の事業会社が入ればすぐ分かるのに、サイエンスのセオリーだけで作ってしまうことが多いのかな、という印象です。
グローバル企業が手掛ける地方創生
竹田氏 3つ目の方向性が、「地域課題の解決と地方創生」です。これは本業を経済的に支える規模にはならないと思いますが、我々が世界70〜80拠点、地方でオペレーションしているメリットを活かすものです。
リスク管理の面でも、工場に世界中から人を集めることは難しく、基本的には工場周辺の、ローカルの人で支えるものなので、人口減少は非常に大きなリスクなんです。そこで自治体が衰退しないよう、活性化するお手伝いをしよう、と。
また、我々はグローバルで仕事をしなければなりませんが、ライフイベントや家庭の事情で、そんなに簡単に動けない人もいる。そういう人の雇用の受け皿として、一時的な「避難場所」としてのような役割を担えないかと考えています。本社工場がある茨城県古河市の駅前にシェアオフィスを作って、スタートアップを招聘したり、行政とも連携して、地域活性化のビジネスをいろいろやろうとしているところです。
堀内 いまの日本の地方は、高齢化や人口減少という課題があり、経済的に小さくなっていくので、参入しづらい領域だと思います。でも、世界中に工場を持っていなければならない貴社からすると、地方がなくなると困る。維持するためにも、採算が合う単位でできる方がいい、と言うことでしょうか。
竹田氏 そうですね。人が移住してくる理由は、仕事と子どもの教育だと思うんです。その文脈で「スタートアップ支援」に取り組んでいます。我々自身もスタートアップは素人なので、シェアオフィスを作って、セミナーを開いたり、有名な方を呼んできたり。若い人や主婦の方を中心に、地方にも結構、起業の意思はあるんです。けれども起業の取っ掛かりがない、アクセスできる情報がない。それを活性化する場所を作りたいと思っています。

堀内 IT系のスタートアップなら、何かあれば東京に来るとしても、普段は地方で在宅勤務するなど、働き方の自由度が高くなってきました。そういう人たちのゆとりある暮らしを支える環境を作っていけるといいですね。
竹田氏 テックで社会課題を解決するようなことも考えていますし、地方も元気じゃないと困りますから。
「また社長が言ってる」が日常になるまで
堀内 最後に、社員の方は「新規事業のことばかり言われても困る」という雰囲気になったりはしませんか。
竹田氏 そういった、既存事業と新規事業の分断は生まれやすいので、そこは気をつけるようにしています。
本業は本業で、いまは自動車業界が絶賛大変な状況なので、かなりの時間を割いています。新規事業に関しては、外からエキスパートやスタートアップのエグジット経験者ばかりを集めてきてもいいのですが、なるべく自分たちでやるように、ローテーションしたりしています。スタートアップでいろんな先端技術を仕入れてきた人は、ちゃんと工場や本業の方にフィードバックする、というループを作るようにして、「先進的なことをやっている人」と「裏方業務をやっている人」という分断にならないように、気をつけています。
堀内 竹田さんが入られて新規事業を始めてから現在まで、会社は新しいことを試すという体制が出てきたと感じますか?
竹田氏 新規事業に対する耐性は、少なくとも昔よりはあると思います。半信半疑で「また社長が言ってるよ」という人もいると思いますが、比較的日常的に、新規事業の話を聞く頻度が高まり、当たり前になってきているかなと思います。
堀内 本日はどうもありがとうございました。
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